兼六園に隣接してます。 津田玄蕃とは加賀藩に使えた家柄の名前で、加賀藩人持組津田玄蕃家の事です。 初代は津田正勝で、二代目以降から「玄蕃」は当主の別名となり代々受け継がれていき、加賀藩の家老職を勤めるほどの重職を担います。 そんな津田玄蕃家が兼六園に隣接する場所に屋敷を構えているのは、加賀藩でもかなり有力な家臣であった証拠ですね。 さすがに当時の巨大だった屋敷の面影はほとんどないようで、入...
加賀藩家老を務めた津田玄蕃邸の遺構。明治期には医学関係の教育施設としても使われた。大正期に現在地に移築され、現在は事務室として使用されている。母屋の正面に突き出た玄関が迫力満点だ。県の指定文化財で、県内に残る1万石以上の高禄武家の邸宅として貴重という。兼六園に隣接しているが、撮影するためには一度退出する必要がある。チケットを見せれば再入場は可能だ。
旧津田玄蕃邸は金沢の代名詞にもなっている名勝 兼六園内にあります。園内では、夕顔亭として親しまれています。津田玄蕃とは、藩主前田綱紀使た1万石を受ける5人の家老の一人でした。子孫の正勝の夫人である、海津夫人は、熱心なキリシタン(カトリック信者)で、正勝自身もキリシタンであったとも言われています。高山右近がマニラに追放になった後、津田海津らは七尾の本行寺に蟄居を命じられ、ここで亡くなりました。今でも...
さすが家老職に相応しい格式ある建物
兼六園に隣接してます。 津田玄蕃とは加賀藩に使えた家柄の名前で、加賀藩人持組津田玄蕃家の事です。 初代は津田正勝で、二代目以降から「玄蕃」は当主の別名となり代々受け継がれていき、加賀藩の家老職を勤めるほどの重職を担います。 そんな津田玄蕃家が兼六園に隣接する場所に屋敷を構えているのは、加賀藩でもかなり有力な家臣であった証拠ですね。 さすがに当時の巨大だった屋敷の面影はほとんどないようで、入...
高禄の家臣宅
加賀藩家老を務めた津田玄蕃邸の遺構。明治期には医学関係の教育施設としても使われた。大正期に現在地に移築され、現在は事務室として使用されている。母屋の正面に突き出た玄関が迫力満点だ。県の指定文化財で、県内に残る1万石以上の高禄武家の邸宅として貴重という。兼六園に隣接しているが、撮影するためには一度退出する必要がある。チケットを見せれば再入場は可能だ。
子孫はキリシタンで蟄居
旧津田玄蕃邸は金沢の代名詞にもなっている名勝 兼六園内にあります。園内では、夕顔亭として親しまれています。津田玄蕃とは、藩主前田綱紀使た1万石を受ける5人の家老の一人でした。子孫の正勝の夫人である、海津夫人は、熱心なキリシタン(カトリック信者)で、正勝自身もキリシタンであったとも言われています。高山右近がマニラに追放になった後、津田海津らは七尾の本行寺に蟄居を命じられ、ここで亡くなりました。今でも...