文学的な知識が疎い私なので、彼の歌の良し悪しついてはよくわかりません。ただ彼の周りの人(家族も含めて)が随分泣いたという人生を考えると否定したくなります。像の隣に座って写真を撮ることが出来ますが、座ったとたん「金貸して」と言われそうと感じました。
旭川駅東改札口の向かいにある観光物産情報センター内にある像。啄木の歌集「一握の砂」には旭川に関する歌が4首収められているので、没後100年を記念して2012年に立てられた。啄木が汽車の窓から冬景色を見ている姿を表しており、その隣に座って記念写真を撮ることができるようになっている。
明治41年1月20日旭川駅前の旅館に投宿「宿屋は我が家のごとく落ち着ける宿だった。明日は釧路に向かうので、不安と期待が交じってなかなか寝付けない・・・」というなかで4首もの歌を詠んでいます。当時の旭川は戸数約6000戸、人口は3万人。急速発展中した。歌の解説と共に明治へのタイムスリップはいかがでしょうか。
旭川駅の駅構内にある、観光案内所の奥あたりにあります。記念撮影ができるようにつくられた像で、著名な作家の作品とかではありません。説明板によれば、石川啄木は、明治41年1月20日の午後3時頃旭川駅に着き、1泊して翌朝6時頃旭川をでて釧路に向かった。生涯で旭川との縁は1泊の滞在のみ。その旭川で4首の短歌を作り、その短歌も掲示されています。旭川の寒さなどを歌ったもので、啄木らしい、哀しさが伝わってくる歌...
確かに石川啄木は天才歌人と言って差し支えないでしょう。盛岡~函館~小樽~釧路、そして東京…流浪の果てに残した数々の名歌は、のちの時代に「あのときの…」「あの場所の…」となり人々の心に残りました。滞在時間がわずかすぎて旭川と「ゆかりがある」とは思えないばかりか、その設置場所とデザイン・演出にも違和感を持ちました。函館・小樽・釧路に対する旭川のライバル心かも?
関係者に申し訳ないのですが、あまり好きではない人物なので〇1です
文学的な知識が疎い私なので、彼の歌の良し悪しついてはよくわかりません。ただ彼の周りの人(家族も含めて)が随分泣いたという人生を考えると否定したくなります。像の隣に座って写真を撮ることが出来ますが、座ったとたん「金貸して」と言われそうと感じました。
啄木の隣に座れます
旭川駅東改札口の向かいにある観光物産情報センター内にある像。啄木の歌集「一握の砂」には旭川に関する歌が4首収められているので、没後100年を記念して2012年に立てられた。啄木が汽車の窓から冬景色を見ている姿を表しており、その隣に座って記念写真を撮ることができるようになっている。
一日の滞在で四首
明治41年1月20日旭川駅前の旅館に投宿「宿屋は我が家のごとく落ち着ける宿だった。明日は釧路に向かうので、不安と期待が交じってなかなか寝付けない・・・」というなかで4首もの歌を詠んでいます。当時の旭川は戸数約6000戸、人口は3万人。急速発展中した。歌の解説と共に明治へのタイムスリップはいかがでしょうか。
観光案内所の奥にある、観光客向けの石川啄木像
旭川駅の駅構内にある、観光案内所の奥あたりにあります。記念撮影ができるようにつくられた像で、著名な作家の作品とかではありません。説明板によれば、石川啄木は、明治41年1月20日の午後3時頃旭川駅に着き、1泊して翌朝6時頃旭川をでて釧路に向かった。生涯で旭川との縁は1泊の滞在のみ。その旭川で4首の短歌を作り、その短歌も掲示されています。旭川の寒さなどを歌ったもので、啄木らしい、哀しさが伝わってくる歌...
天才歌人であるのは間違いないが、この歌碑は…
確かに石川啄木は天才歌人と言って差し支えないでしょう。盛岡~函館~小樽~釧路、そして東京…流浪の果てに残した数々の名歌は、のちの時代に「あのときの…」「あの場所の…」となり人々の心に残りました。滞在時間がわずかすぎて旭川と「ゆかりがある」とは思えないばかりか、その設置場所とデザイン・演出にも違和感を持ちました。函館・小樽・釧路に対する旭川のライバル心かも?